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夏休みもおわり特集・子どもに見習わせたい“最近の偉人”伝
――世界的に著名な日本人からキーワード
執筆協力 編集工房インデックス

小澤征爾

満州

小澤は1935年旧満州国奉天(現・瀋陽)生まれ。父・開作は山梨県出身の歯科医で、長春で医院を開業していた。征爾が生まれたころは協和会の創立委員として奉天へ移住、満州国の国づくりを民間レベルから支えた。開作と親交のあった板垣征四郎(のち陸相)と関東軍参謀・石原莞爾(2人は満州事変の張本人)から一字ずつもらって命名したという。なにも小澤家が極右だったとかいうことではなく、時代の風潮であった。一家は1941年に帰国。

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ピアノ

小澤と音楽の出会いは10歳の時に長兄からアコーディオンとピアノの手ほどきを受けたことに始まる。征爾の天分を感じた一家は、本格的にピアノを学ばせようと決意。横浜市白楽の親類からピアノを安く譲ってもらうことにし、リヤカーにしばりつけて父、長兄、次兄が三日かかって立川の自宅まで運んだという。

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成城学園

小澤の母校。1917年、澤柳政太郎が、実験的教育の場として成城小学校創設。自由教育を理念とする。1925年、世田谷区成城に移り、総合学園として発展。小澤は小学校卒業後、成城学園中学校へ入学。ラグビーとピアノのレッスンに明け暮れ、泥まみれのまま鍵盤に向かうことも珍しくなかった。約2時間半の遠距離通学で、帰宅はいつも夜遅くになったという。中学の音楽部2年下にソニーの出井伸之。

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「皇帝」

ベートーベン(1770〜1827)のピアノ協奏曲第五番。1951年、小澤は日比谷公会堂で行なわれた日本交響楽団(現N響)の演奏会で、レオニード・クロイツァー(1884〜1954。ロシア人ピアニスト)がこの曲を指揮しつつ弾いたのを聴き、これが指揮者を志すきっかけになった。

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斎藤秀雄

1902〜1974。音楽家。桐朋学園女子高校付属音楽科(当時)以来の小澤の師であり、縁戚関係もある。父は英語学者の斎藤秀三郎。16歳よりチェロを学び、ドイツへ留学。帰国後、奏者・指揮者として活動。早期音楽教育の重要性を主張し、48年「子供の音楽教室」を開設、桐朋学園大学の基礎を作った。その指揮法は「斎藤メソッド」として体系化され、日本の音楽教育に大きな影響を及ぼしている。

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スクーター

小澤は1959年、単身で音楽修行のためヨーロッパに出発。学費捻出のため、知り合いに無心のお願いをして回ったが、ようやく話のついたのが富士重工。同社の新型スクーター、ラビットジュニア125ccを借りて現地へもってゆき宣伝して(乗って)まわることとの取引であった。「日本国籍の明示」「音楽家であることを示す」「事故をおこさない」の3条件を提示されたため、白いヘルメットにギター、日の丸といういでたちになった。右翼ではない。made in Japan をヨーロッパに売り込み、貿易立国の一翼を担ったのだ。

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シャルル・ミュンシュ

1891〜1968。パリ音楽院管弦楽団指揮者、ボストン交響楽団首席指揮者などをつとめた音楽家。1959年、ブザンソン国際指揮者コンクールで小澤が優勝した折の審査員長。小澤はその弟子になりたい一心でアメリカに渡り、バークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)に参加、指揮コンクールで第1位、クーセヴィツキー大賞を受賞。

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ヘルベルト・フォン・カラヤン

1908〜89。ドイツの指揮者。フルトヴェングラー亡き後、30年にわたってベルリン・フィルに君臨。「帝王」などと呼ばれ、完璧主義者として知られる。1960年、カラヤン主催の若手指揮者コンテストで優勝した小澤はカラヤンのレッスンを受けることになった。毎月一度、パリからベルリンへ通ったという。

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レナード・バーンスタイン

1918〜90。アメリカの指揮者、作曲家。ミュージカル「ウエストサイド・ストーリー」の作曲でも知られる。1961年、小澤はバーンスタインに招かれ、彼が指揮者をつとめるニューヨーク・フィルの副指揮者に就任。その日本公演で2年ぶりに帰国し、日本でのデビューをかざった。

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N響事件

1962年、小澤はニューヨーク・フィルの副指揮者を辞任し、N響の指揮者に就任。だが、団員によるボイコット運動が起こり、定期演奏会と同年末の「第九」演奏会がお流れになった。海外と日本の練習のスタイルの差に団員が大いに違和感をもったためともいい、オーケストラによるいわゆる“指揮者いじめ”ともいう。翌年1月、小澤に同情した井上靖、石原慎太郎、大江健三郎、團伊玖磨らのよびかけで「小澤征爾の音楽を聞く会」が開催、小澤は日本フィルを指揮してチャイコフスキーの交響曲などを聴かせた。

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ボストン交響楽団

1973年以来、小澤が音楽監督を務めていた楽団。アメリカ屈指のオーケストラである。小澤は同楽団を率いて、欧州公演、日本公演、中国公演、米国横断演奏旅行など、活発な音楽活動を展開。2002年秋からのウィーン国立歌劇場音楽監督就任のため、小澤は長年つとめたポストを去った。

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